Non Human Festival

無人演劇祭の開催を目指して

 

 

 

無人の演劇は果たして可能でしょうか。

演劇とは俳優がいなくても成立するのでしょうか。

 

AIによって世の中の様々なものが無人化されていく昨今、

無人(不在)の演劇と分類できるであろうもの自体は少しづつ増えてきているように感じます。

作曲家でもあるハイナー・ゲッベルスによる『シュティフタース・ディンゲ』*1や

主人公が不在であること自体をコンセプトとし、アラブの春の英雄を描いた『33rpmと数秒間』*2などのポストドラマ的舞台作品はもちろんのこと

今年映像演劇宣言を出し、美術館での展示という形を取ったチェルフィッチュの作品群*3のようなもの、

PortBを出発としたツアーパフォーマンスなど、演劇性を持った美術作品、

VR演劇、VOCALOIDオペラ、参加型イベントなど..

気づかない場所にもいつしか人間以外の活躍する演劇的なものが増えてきました。

 

21世紀に入りインターネットや携帯電話、SNSが発達し、表現の手法

少しずつ対話<コミュニケーション>のメインツールが現実の対話から何かしらのメディアを通したものに変わってゆき、

どこまでが自分なのかどこまでが人間なのか、境界線が曖昧になってきています。

例えば本人はこの世から居なくなっても、ネット上では生き続けるといったことが私たちの周りでも起きています。

 

そんな現代社会においても、舞台は未だに生(LIVE)であることを大事にするメディアです。

故に、一般的なプロセニアムの演劇の中の生(LIVE)と私たち(観客席)の本当のリアリティとはどこか違っているようにも思えます。

また、各地で小劇場や学生を中心に行われている「演劇祭」は祝祭性を持ちつつも、出演者や劇団、観客の交流の場としての側面が大きく

関係者と第三者の熱量には隔たりがあるように思えてきました。

 

そこで私は生の人間関係を排した無人の演劇祭がないものか、と思うようになりました。 

 

生の人間に出会わない演劇。

二人芝居でもない、

一人芝居でもない、

0人の芝居。

不在の演劇 

 

それは、本当の私たちと向き合うことが出来る新しいスタンダードな[演劇 ] の形式の一つなのかもしれません。

最終的なものが展示のようになるのか、公演となるのか、まだ未知数な企画ですが、

「演劇祭」と称することで各所に散らばった不在の演劇<無人演劇>を集めたいと考えました。

 

無人の演劇を考えることで、人とは何か、 人がいないとはどういうことか、

当たり前のように近くに誰かがいたことを見つめ直す機会となればと思います。

 

 

 

2019年ごろ(都市もまだ限定しておりません。条件等合えば場所のご要望承ります。)の開催を目指しつつ

もしご賛同いただけるアーティスト、キュレーター、プロデューサー、モデレーター、プログラマー、美術家、彫刻家、

作曲家デザイナー、映像作家、演出家、劇作家、俳優、小説家、照明デザイナー、装置家、サウンドデザイナー、なんでもないと思っている人etc....

の方がいらっしゃいましたら実現に向けて動きたいと考えております。

詳細は人によって全く違う内容になるかと思いますが、下記のフォーム(植村個人宛です。)より何かしら参加表明をしていただければ

少しづつレスポンスしていきたいと思います。

お気軽にご連絡ください。

 

2018.10月某日

植村真

 

 

 *1『Stifters Dinge』ハイナー・ゲッベルス 2008年

*2 『33rpmと数秒間』ラビア・ムルエ/リナ・サーネー 2013年

*3『渚・瞼・カーテン』岡田利規 熊本市現代美術館 2018年

 

 

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