Non Human Festival

無人演劇祭の開催を目指して

 

 

 

無人の演劇は果たして可能でしょうか。

演劇とは俳優がいなくても成立するのでしょうか。

 

 

【演劇】

作者の仕組んだ筋書(戯曲・台本)にもとづき、俳優(演者)が舞台の上で言葉(台詞)・動作によって物語・人物また思想・感情などを表現して観客に見せる総合芸術。

多く演出者が一定の劇作術の下に指導し、舞台装置・照明・音楽などにより効果をあげる。*2

 

広辞苑を開いても “ 俳優(演者)が ”とあるように俳優がいることは自明のように思えます。

かつて演劇の成立するための要素は、俳優・戯曲・観客 *1であると言われていました。

しかし、もし必要条件から俳優という要素を無くして演劇が成り立つとすれば、この前提条件は更新されることとなるでしょう。

 

上記の要素に対して安藤隆之氏は「静的な成立要件」である、として

ローマのトレビの泉が彫刻と水、建物で構成されるもののテアトロと呼ばれており

演劇のようであることを例に『俳優という要素が演劇に不可欠ではない』とし、

以下の三つの要素を動的な成立要件として提唱しました。

 

A 演技、上演行為 (Play ; Performance, Spectacle)

B 観衆 (Spectator, Audience, Public)

C リアルタイムで共有される時空間 (Simultaneously shared space and time)*3

 

演技とは演じているように見える技であり、人間以外の演技  − 例えば平田オリザ氏のロボット演劇のように

であっても我々は「演技」であるように感じることができます。

この定義は演技をするものは必ずしも人間である必要がないことを示しています。

 

 

また、美術批評家のマイケル・フリード氏はかつてミニマリズムの作品において、作品が観客を意識し、鑑賞者の存在を内包している作品の状況を

「客体性」、「演劇性」という言葉を用いて芸術に敵対するものとして批判しました。*4

確かに美術は必ずしも鑑賞者の存在を意識する必要はありません。

しかし、作品と作者、観客の関係性は決して一つの方向ではなく、切り離すことも双方向に繋ぐことも可能です。 

 

この「演劇性」は私が思うに、今やインスタレーションやコンセプチュアルアートに発展し

鑑賞者なしには考えにくいリレーショナルアートやインタラクティブアートとして残っていったと言えるのではないでしょうか。

 

 

さて、トレビの泉はその水の滴る様子と彫像の表情、そしてその背景となる建物が舞台美術として作用するものですが、

AIによって世の中の様々なものが無人化されていく昨今は、特に無人(不在)の演劇と分類できるであろうもが増えてきているように感じます。

 

作曲家でもあるハイナー・ゲッベルスによる『シュティフタース・ディンゲ』*5や

主人公が不在であること自体をコンセプトとし、アラブの春の英雄を描いた『33rpmと数秒間』*6などのポストドラマ的舞台作品はもちろんのこと

今年映像演劇宣言を出し、美術館での展示という形を取ったチェルフィッチュの作品群*7のようなもの、

PortBを出発としたツアーパフォーマンスなど、演劇性を持った美術作品、

VR演劇、VOCALOIDオペラ、参加型イベント(リアル脱出ゲーム)、テーマパークのアトラクションなど..

いつしか身近な場所にも人間以外の活躍する演劇的なものが増えてきました。

 

21世紀に入りインターネットや携帯電話、LINEをはじめとしたSNSが発達し、表現の手法が多様化する中で

少しずつ対話<コミュニケーション>のメインツールが現実の対話から何かしらのメディアを通したものに変わってゆき、

どこまでが自分なのかどこまでが人間なのか、境界線が曖昧になってきていく感覚に陥ることがあります。

例えば架空の人物と会話をする、ネット上だけでしか知らない人がいる、本人はこの世から居なくなっても、ネット上では生き続ける

といったことが私たちの周りでも起きています。

 

そんな現代社会の中で、舞台は未だに生(LIVE)であることを大事にするメディアです。

故に、一般的なプロセニアムの演劇の中の生(LIVE)と私たち(観客席)の本当のリアリティとはどこか違っているようにも思えます。

 

また各地で小劇場や学生を中心に近年活発に行われるようになった大小様々な「演劇祭」と呼ばれるものがあります。

複数の劇団が関わる演劇祭は祝祭性を持ち、地域に開かれた企画も多く、創作する側と観客を繋ぐ良いものとなりうる可能性を持っていますが、

出演者や劇団の交流の場としての側面が大きく、関係者と第三者の熱量には時に隔たりがあるように思えてなりません。

それは、多くの演劇に関わらない人々との距離をより広げてしまう行為なのではないか、と私は危惧するとともに

劇場のもつ閉塞感を助長するのではないかと思いました。 

 

そこで 私は、「生の人間関係を排した無人の演劇祭がないだろうか」と思うようになりました。 

 

 生の人間に出会わない演劇。

 

 二人芝居でもない、

 

 一人芝居でもない、

 

 0人の芝居。

 

 不在の演劇 

 

 

 

 

それは、本当の私たちと向き合うことが出来る新しいスタンダードな[演劇 ] の形式の一つなのかもしれません。

最終的な形態は展示のようにも見えるかもしれませんが、「演劇祭」と称することで

様々な場所に散らばった不在の演劇<無人演劇>を集めたいと考えました。

 

「無人」の演劇を考えることで、今まで当たり前のように演劇の中で登場していた

人とは何か、 人がいないとはどういうことか、

当たり前のように近くに誰かがいたことを見つめ直す機会としたいと考えます。

 

 

 

 まずは2019年9月頃の都内開催を目指しつつ動いております。ご参加いただけるアーティスト、キュレーター、プロデューサー、モデレーター、プログラマー、美術家、彫刻家、

作曲家デザイナー、映像作家、演出家、劇作家、俳優、小説家、照明デザイナー、装置家、サウンドデザイナー、etc....

の方がいらっしゃいましたら下記のフォーム(植村個人宛です。)より何かしら参加表明をしていただければ少しづつレスポンスしていきたいと思います。

お気軽にご連絡ください。

 長らくお読みいただきましてありがとうございました。

 

植村真

 

 

 *1『演劇概論』河竹登志夫 東大出版 1978年

*2  『広辞苑第六版』2008年

*3  『演劇とは何か』安藤隆之 中京大学文科学研究所 1999年

*4 『芸術と客体性』マイケル・フリード 太田出版 1995年

*5『Stifters Dinge』ハイナー・ゲッベルス 2008年

*6『33rpmと数秒間』ラビア・ムルエ/リナ・サーネー 2013年

*7『渚・瞼・カーテン』岡田利規 熊本市現代美術館 2018年 

 

参考

『美術手帳 18年号8月号 ポスト・パフォーマンス』美術出版社 2018年

『ポストドラマ演劇』ハンス=ティース・レーマン 同学社 2002年

 

 

 

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